まずは、この物語の結論から始めよう。
僕はフィリピン人彼女に別れを告げられた。林檎を投げつけられて。
別れから6か月経過した今、ようやく気持ちに区切りがつき、こうしてブログを綴っている。
今回は、そんな愚かな男の国際恋愛の一部始終をお届けしよう。
3月に転機は訪れる
僕は以前こんな記事を書いている。
http://www.firiinfo.com/2016/01/24/philippine-girl/
この記事を書いたのが2016年1月24日である。
その約2か月後の3月に、僕はフィリピンで彼女から林檎を投げつけられている。
ちなみに、その時が僕と彼女が最後に会った日なので、僕と彼女の最後の思い出は「林檎を投げられる」「林檎を投げた」だ。
なんともばかげている。
このいわゆる「林檎事件」が直接の原因となり、2016年5月に交際を解消するに至った。
別れるまでに時間がかかったのはお互い忙しかったことに加え、遠距離恋愛であったことも要因の1つである。
遠距離恋愛ならば、お互い会いたくなければ会う必要もないので、なーなーの状態で2か月間過ごしていた。
今思うと、「別れる」という精神的に体力を使う作業を後延ばしにしていただけである。
では、そろそろ内容を綴っていくとしよう。
しかし、別れの原因になった「林檎事件」を語る前に、まずは僕とフィリピン人彼女の関係について説明しておきたい。
僕とフィリピン人彼女

僕と彼女は2014年の9月にフィリピンで出会い、10月に交際を始めた。
僕がなぜフィリピンにいたのかというと、通っている大学を休学し海外インターンシップに挑戦するという意識高い系の理由からである
当時僕は21歳で、彼女は31歳。まさかの10歳差であったw
しかし、その年齢差は特に気にならなかった、といっては嘘であるが、彼女は見た目的にも精神的にも若かった。
そんな彼女と僕は付き合いを始めてから、徐々に意気投合していき、とうとう同棲するようになった。
意識高い系の僕が聞いて呆れるがインターンシップ先の会社を辞め、彼女の家に転がり込んだのであるw
会社を辞めた理由は、色々あるが今回は割愛しておこう。
ただ1つ言えることは、僕はそのことに関して全く後悔していないどころか、むしろ当時の自分に会えたら「よくやった」と褒めてやりたいくらいなのである。
彼女は妹と同居しており、僕が妹の子供のベビーシッターとなることで一緒に住まわせてもらうことになった。
同棲中は彼女と妹が仕事でいない間、僕はその子供と公園に行ったり、ご飯を食べたりして遊んでいた。
夕方に彼女が職場から帰ってくると、一緒におしゃべりしたりたまには外食に行ったりして、今思うとヒモのような生活をしていた。
そんな生活にも終わりは来る。
2015年の6月に僕は当初の予定通り日本に帰ることになったのだ。
このまま大学をやめてフィリピンで働きたいと何度思ったかわからない。
でも、それは、「違うだろ」と冷静に僕は自分にツッコミをいれて、それでも重い足を引きずりながら、帰国した。
その後はセブパシフィックのセールを利用して(往復8000円くらいでいけちゃうんで
す!)、2、3か月に1回のペースでフィリピンに通っていた。
僕たちは、デュテルテ大統領の政治家としての基盤となったダバオや世界遺産にも認定されている棚田バナウェなど、フィリピンの主要な観光地はほぼ訪れた。
そして僕が最後にフィリピンを訪れたのが2016年の3月である。
林檎事件な突然に

2016年3月、僕はいつもの如くフィリピンはマニラの地を踏んだ。
空港に迎えに来てくれた彼女とタクシーの中で他愛もない会話を繰り広げては、運転手の笑みを誘った。
15分程の幸せなタクシードライブを終えて彼女の家に着いた。その時、彼女の顔色が変化したのを僕は見逃さなかった。
「なにかあったの?」僕が聞くと、彼女は俯きながら切り出した。
「話があるの。」
僕はこれ以上ないほどに緊張したことを今でも覚えている。
外では、フィリピン特有の乾いた日差しが降り注ぐ中、僕たちの空間だけが淀んでいた。
「私、実はUAEに働きにいくことになったの。」
UAEとはアラブ首長国連邦のことで、GDPの約10%を海外からの送金で賄っているフィリピンからの労働者を最も受け入れている国である。
突然の宣告に僕は驚きを隠せなかったが、彼女との会話をまとめると大きく2つ理由があった。
⓵自分の能力であれば海外でもっと稼げる仕事がある。
⓶両親が最近体調を崩しがちで、医療費がかさむようになってきた。
彼女は働きお金を貯めながらステップアップのために2つの大学をでている。フィリピンではハイエンドな人材であることは間違いない。
そんな彼女は常日頃から、給料が少ないと不満を漏らしていた。
また、フィリピンでは社会保障制度が整っていなく、1度治療を受けるとバカ高い医療意を請求されることがある。
家族愛の強いフィリピン人は両親が病気にかかれば、例え両親が治療を拒んだとしても、自分の身を削ってお金を稼ぎ、無理矢理にでも治療を受けさせることがある。
給料が少ないことに不満を感じていたことに加え、両親の体調不良である。
彼女がより良い待遇の職場、特に彼女が10人に1人が海外で働くと言われているフィリピン人であることを考えると、彼女が「海外で働く」という選択肢を考えることは当然であった。
そこで、斡旋会社で面接を受けてみると、とんとん拍子で話が進み、僕が彼女から話を聞いた時には既にUAE行きが決まった後であった。
僕は何で話してくれなかったのだ、と抗議をした。
しかし彼女は寂しい顔をしながらこう言い放った。
「あなたに話しても意味がないから。」
この時点で僕は冷静さを失っていたのかもしれない。
僕は彼女に対して声を荒げた。「行くなよ!」
しかし彼女は家庭のことや自分のことで既にいっぱいいっぱいであったのであろう。
彼女も怒鳴りながら答えた。
「じゃああなたが私の家族を支えてくれるわけ?あなたじゃできないから私がやるしかないの!」
そう言い放つと同時に彼女は、ガラステーブルの上に置かれたフルーツバスケットから、まだ熟しいていない青い林檎をつかみ取り、僕に投げつけた。
僕は、僕の身の丈を思い知らされて、何も言い返すことはできなかった。
僕は経済的支援を申し出るほどの余裕もないし、彼女がそれをわかっていて僕に話さずにUAE行きの話を決めたことがなによりも悔しかった。
その後2日間当たり障りのないことを話しながら食事をしている時間が一番辛かった。
その後
僕と彼女は林檎事件の2か月後に正式に別れることになった。
林檎事件以来、たまにテキストでメッセージは交換していたが、以前のようにビデオ通話をすることはなかった。
別れの時は意外とあっさりいていて、「こんなもんかー」と思っている自分がいた。
現在、彼女はUAEで仕事をしている。
海外で働く女性フィリピン人は、基本的にメイドなどの単純労働者になることが多いが、彼女はオフィスワークをしているようだ。
詳しい仕事内容は聞いていないが、Facebookにあげられる彼女の笑顔を見ると胸が少し苦しくなると同時に、家族のことを支える彼女を誇りに思う僕がいた。
僕はこれから一般企業でサラリーマンとして働いていくことになる。
寄りを戻そうとは考えていないが、いつか彼女にもう一度会った時に「立派になったね」と言われることを想像しながら、僕はこのブログを綴った。